ゆうの読書記録

しがない大学生のゆうがゆるゆる読書記録をつけるブログです

論文の書き方

論文の書き方(岩波新書) 清水幾多郎

 

https://www.amazon.co.jp/論文の書き方-岩波新書-清水-幾太郎/dp/4004150922

 

文章を書く」という経験があまりない、というか入試問題のようにある程度方向性の決まっているもの以外、すなわち自分で一から考えて書くという行為を避けて生きてきたのでこれではいかんと思って図書館で借りて読んだもの。だから完全に自分的に自己啓発の一種のような立ち位置になってしまった。

 

最初にある、短文から始めるべきという内容についてはそもそも自分が入試対策で英語の要約をしたり、既知の歴史から自分なりに600字で文章化するといった一種の短文作成をし続けたことでそこそこ内容をコンパクトにまとめる行為の練習になっていたことに気付かされたという点で学びがあった。

 

また、もう一つには「が」の多用への危険を促すといったものがあった。これは目から鱗であった。私たちは日常的に「が」という助詞を多用している。しかし果たしてその使い方で厳密に自分の意図した論理関係が人に伝わるか、についてあまり考慮したことがなかった。確かに順接としても逆説としても用いられているところを多く見受ける。そしてその使い方の多くが文脈に依存した曖昧なものが多いのは確かであると思う。自分で文章を書くときに気をつけたいと思った。

 

「論文」というものには先行研究のレビューなど下調べも大事だと思うけれども、物事を正確に伝えられるように「文章を書く」という行為は自分たちの母語で行うときもかなり困難で注意を要するということが理解できたことがこの本を読んで一番の収穫である。

 

読書記録と題していても、ブログであることには変わらない。文章にするといかに薄いことを書いてるかが自分でわかるしこの内容を世界に発信するのは気がひけるけれど、一種の勉強と思って頑張ろうと思った今日この頃

 

書くのって大変だなあ〜

 

 

教養主義の没落

教養主義の没落(中公新書) 竹内洋

 

https://www.amazon.co.jp/教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化-中公新書-竹内-洋/dp/4121017048

 

またもや軽く読み始めたものが先に終わってしまった。

 

教養という言葉は現代の若者が失ったとされているもののうちの一つだと私は認識しているけれども、総合雑誌を読む帝国大学生が3割ほどいたという資料を見て、現代との時代に愕然とした。別に教養主義をたたえている訳ではない。むしろ若干教養偏重な自分の考え方を見直すきっかけを与えてくれた。しかしやはり古典を読み、自分なりに解釈したり自分の価値観に新たな観点を加えることは学生時代に取り組むべき行為だと思う。

 

この教養主義が没落した背景として、よく言われるマルクス主義の台頭の他に、企業が大卒一括採用を行うようになったことでエリートとしての大卒の価値が揺らいだといったことが書かれていた。これはとても腑に落ちた。自分では教養は大事だと思っているけれども現代の大学生はインターンに勤しまなければ就職もおぼつかなく嗜みとしての読書にかけられる時間はそれほど多くはない。一昔前の大学生はそんな中うまく時間のやりくりをしていたのだろうかと疑問に思っていたからだ。(単に自分の知識不足という気もする)

 

その他にも文理の意識差と階層差の関連など面白い記述はあったが、まあそこそこまとめられたのでこの辺で。

アメリカの大学

アメリカの大学(講談社文庫) 潮木守一

勉強というかちょっとした娯楽のために神保町の沢口書店で受験直後に購入。

 

昨今の日本ではアメリカの大学に対する一種の信仰のようなものがある気がするほど、アメリカの大学への留学を勧める動きが強いが、少しその動きに対する見方を変えてくれたかもしれない。

 

アメリカの大学が当初いかに脆弱で(学生は遊びに興じることがメインであった)、ドイツに留学していた人々を中心にどのようにメスを入れていったかが、資料分析を元にして大学別、もしくは人物ごとに書かれている。サクッと読めるのでとても楽しむことができた。

 

個人的には、大学という組織が教育機関であるのか研究機関であるのかが結構ナイーブな問題であるように感じた。大学院大学はともかくとして学部教育をメインに設立された大学については、特に難しい問題だと思う。

 

テニュアといった制度も研究に対して生活の安定が得られるというメリットと、大学の新陳代謝が悪くなるという現代日本の問題にも通じるものが少し前のアメリカにもあったというのは興味深かった。

 

最初なので今日はこの辺で。